JR神田駅から南へ歩いて5分ほど。須田町の交差点にほど近い一角に、黒い瓦屋根の木造建築がそのまま残っている。いせ源。創業は1830年、天保元年である。江戸の末期からこの町で、あんこう料理だけを出し続けて196年になる。
7代目の若旦那であり、店長でもある立川博之さんは43歳。朝7時15分、バイクで店に着くと、まず寸胴に水を張る。ここからこの店の一日が始まる。
この日、厨房の脇には北海道から届いたあんこうが3匹。大きいもので8キロ近い。あんこうは、まな板の上ではなく、吊るして捌く。
動画の目次
時間 | 内容 |
|---|---|
1:10 | 立川店長がバイクで出勤 |
1:43 | 仕込み開始──出汁を引く |
5:03 | あんこうの吊るし切り |
6:43 | 滑りと鮮度の見分け方 |
8:02 | 肝の相場と、仕入先との信頼 |
10:25 | 肝の良し悪しを見る |
11:39 | 取引先の八百屋が語る「いせ源」 |
12:31 | なぜ味噌ではなく醤油仕立てなのか |
16:48 | カメラマンが包丁を握る |
20:33 | あん肝の仕込み |
27:00 | 人力車の送迎サービス |
28:26 | 11:30 開店 |
31:32 | あんこう鍋 |
37:57 | 店主インタビュー |
屋号は、伊勢屋に奉公した初代の名前から
店の名前には由来がある。初代は立川庄蔵という人物で、伊勢屋という店に奉公に出ていた。「伊勢屋の庄蔵」で、いせ庄。2代目の源四郎の代に店を神田へ移し、そのときにいせ源と改めた。以後、屋号は変わっていない。
入り口には70年ほど前の写真が飾ってある。立川さんの父親が子どもだった頃のものだ。見守っていてほしい、という気持ちで掛けているのだという。
継ぐことに迷いはなかったのか、と聞かれて、立川さんはこう答えている。
いずれは継ぎたいと思っていて、色々あって早く継ぐことにはなったんですけれども。自分が生まれ育ったのがこのお店のおかげですし、このあんこう鍋の味も好きだったので。
店に入ったのは2007年。以来20年近く、この厨房に立っている。
一日は、出汁から始まる
最初の仕事は出汁だ。寸胴に水を張り、利尻昆布とソウダガツオを入れて火を入れる。火力を調整しながら、およそ1時間かけて沸騰の手前まで温度を上げていく。沸かしてしまうと、抽出される旨み成分が変わり、えぐみも出る。

沸騰の直前で昆布を引き上げ、そこに鰹節を入れる。灰汁を取りながら、さらに1時間ほど。
最後は出汁ごと袋に移し、鰹節も一緒に入れて搾る。搾ればまだ出汁が出てくる。ここまでで、朝の仕込みの1本目が終わる。
工程 | 使うもの | ポイント |
|---|---|---|
一番の火入れ | 利尻昆布・ソウダガツオ | 約1時間かけて沸騰の手前まで |
昆布上げ | ― | 沸かすとえぐみが出るため直前で引き上げる |
鰹節 | 削り節 | 灰汁を取りながらさらに約1時間 |
搾り | 布袋 | 鰹節ごと搾って最後の一滴まで |
吊るして捌く
8時8分、スタッフが出勤してくる。ほぼ同時に北海道からの海産物が届く。立川さんはエプロンを着け、包丁を出す。
あんこうは水分が多く身が柔らかいため、まな板の上では形が定まらない。だから口をフックに引っ掛けて吊るし、立てたまま切っていく。いわゆる吊るし切りだ。

ヒレを落とし、皮に切れ目を入れて剥ぐ。内臓は産地の業者が処理済みなので、そこは省かれる。横のカマを落とし、中央の大身を落とす。1匹あたり数分で解体は終わる。
小ぶりな1匹で、鍋にして10人前ほど。ただし可食部は全体の3分の1程度にしかならない。
滑りは、鮮度の証拠
2匹目を吊るすと、粘液が氷柱のように垂れた。あんこうには鱗がない。代わりに、この滑りが皮を守っている。
外敵に襲われたときの防御手段でもある。滑りを出すと相手が嫌がって撤退する、というわけだ。
そして滑りは、死んでから出きる。つまり——
滑りもなくて、むしろ光沢があるようなのは鮮度は良くないですね。ある程度滑りがあるのは鮮度いい証拠ですね。
成長は1年あたり1キロ前後。5キロになるまでに5年はかかり、そこからは加速度的に大きくなる。この日の8キロの個体で、6〜7歳といったところだという。立川さんがこれまでに捌いた最大のものは、30キロ近くあった。
いちばん高いのは、身ではなく肝
あんこうで価値が高いのは肝だ。北海道産でキロあたり2万円から、相場が上がった時期には4万円近くまでいったという。海外の需要も伸びていて、値段は上がり続けている。
あんこうは腹を開いて胃の内容物を取り除いた状態で届く。その処理を任せられるのは、肝の良し悪しまで分かる業者だけだ。仕入れは信頼関係の上に成り立っている、と立川さんは言う。
この日取り出された肝は1キロあまり。それでも肝刺しにすれば10人前取れるかどうかだという。酸化しやすい外側は削って鍋用にまわし、半端な部分は裏漉しして別の料理に使う。捨てるところがない。

良し悪しの判断は色と光沢で見る。火を入れるとオレンジがかったピンクに変わる。鮭と同じアスタキサンチンによるもので、何を食べて育ったかで個体差が出る。加熱するとその差がはっきり出るのだという。
項目 | この日の数字 |
|---|---|
産地 | 北海道 |
解体した数 | 3匹 |
最大サイズ | 8キロほど(推定6〜7歳) |
過去に捌いた最大 | 30キロ近く |
肝の相場 | キロ2万円〜、高い時期は4万円近く |
可食部 | 全体の約3分の1 |
小ぶり1匹 | 鍋にして約10人前 |
神田だから、味噌ではなく醤油
あんこうは水分が多い魚だ。切り身を煮込むと、水を一滴も加えずに煮えてしまうほどだという。旨みも出る一方で、滑りを含めた臭みも出る。だから一般的には味噌でそれを消し、肝を溶いてコクを与える。世に知られたあんこう鍋が味噌仕立てなのは、そういう理屈である。
いせ源の鍋は醤油仕立てだ。先代がこの神田で出すにあたって醤油に合うようにつくり替え、それが受けた。以来、いせ源のあんこう鍋は醤油の鍋である。
取引先の八百屋が野菜を届けに来る。25年の付き合いだという。なぜこの店はこんなに長く続くのか、と聞かれて、うまいから、そして珍しいから、と答えた。醤油仕立てだから生臭くない、自分は魚があまり得意ではないがここのは食べられる、とも。
7代目の人物評も率直だった。頭がいい、と。鍋に入る三つ葉や椎茸を自分で現地調達してくるあたりが、やり手なのだそうだ。
仕込みは、ぬめりとの戦い
解体が終わると、部位ごとの下処理が始まる。火入れ時間の短いものから順に茹で、上げては水で冷やし、表面の滑りを削ぎ落とす。ここまでやって、ようやく白い身になる。
中央の大身は唐揚げに、頬肉は茶碗蒸しや土瓶蒸しに。骨付きの唐揚げに使う部位は、薄い粘膜をすべて取り除く。残っているとカラッと揚がらない。
ヒレも卵巣も、水袋と呼ばれる分厚い胃袋も、細かく切って鍋の具になる。皮から内臓まで、ほとんどが食べられる魚である。
肝は塩水に20分ほど漬ける。旨みを落とさずに臭みだけを抜くための時間だ。そのあと蒸し器へ入れて1時間ちょっと。冬場の大きい個体だと1時間半かかる。
立川さんの包丁は同じものを2本、もう15年ほど使っている。撮影クルーのカメラマンが試しに握らせてもらう場面があるが、刃を全体で使う立川さんの手つきと、先だけで押している素人の手つきの差が、そのまま画に出ている。
いちばん難しいのは何かと聞かれて、返ってきた答えは速さだった。数をこなすしかない。そして、20年やっても習得できなかったことがひとつある——手がかじかむこと。冷たいので、手袋を使わせてもらっている。
好きな料理は「とも和え」
あんこう料理でいちばん好きな食べ方を聞かれ、立川さんはとも和えを挙げた。身も白身も皮もヒレも胃袋も、全部を合わせ味噌と肝で和える一皿だ。
一皿の中にあんこうの魅力が凝縮されている、というのが理由のひとつ。もうひとつは、産地ごと、家庭ごとに味付けが違うことだという。おばあちゃんの味のようなものがそれぞれにあって、その文化性も含めて好きなのだと話していた。
この日の仕込みは、あんこうだけでは終わらない。エゾメバルを湯通しして洗い、鰹に塩を振ってガスで炙り、藁に火をつけて香りを移す。裏が真っ白な天然のヒラメを一枚、5枚におろす。あんこう専門店ではあるが、厨房で動いているものは一種類ではない。
11時30分、開店
11時24分。店先の植物に水をやり、あんこうの描かれた暖簾を掛ける。店頭のショーケースにはあんこうを飾り、口に氷を入れ、周りを氷で囲い、氷袋を吊るす。ガラスを拭き上げて、看板の完成である。

この時間、店の前には人力車が待機している。いせ源が用意している送迎サービスで、界隈の案内や神田明神への足として使える。予約もできるし、当日その場で頼むこともできる。食事をしない人でも乗れる。
照明を入れ、店内を掃除し、札をひっくり返す。11時30分、開店。同時に客が入ってくる。
メニューと、鍋の中身
品目 | 価格 |
|---|---|
あんこう鍋(1人前) | 4,000円 |
きも刺し | 1,800円 |
とも和え | 1,200円 |
唐揚げ | 1,400円 |
あん肝冷やし担々麺(御膳) | 2,000円 |
鍋にはあんこうの皮、身、胃袋、頬肉、あん肝が入る。野菜と練りものはうど、椎茸、銀杏、絹さや、しらたき、焼き豆腐、そして切り三つ葉。割り下を張ってコンロにセットし、マッチで火を入れて出す。
食べ方についても指示がある。じっくり煮込んで、白身やうどに割り下の色が染み渡るくらいまで待ったほうが味が入る。三つ葉は先にしなる。肝は後のほうに食べたほうが割り下の味わいに深みが出て、締めのおじやがうまくなる。
夏場のメニューにはあん肝の冷やし担々麺もある。スープにあん肝のペーストが入っていて、卓上で追い足しもできる。あんこうを冬の鍋の中だけに置いておかない、という意思のあらわれでもある。
海と、畑と
取材の最後、いま力を入れていることを聞かれて、立川さんは食材の話をした。生産者の思いと食材を大切にして、それを料理として届けるのが自分の責務のひとつだと思っている、と。だからあんこうの産地にも、野菜の畑にも足を運ぶ。
鍋に入る切り三つ葉やうどは日本原産の作物で、つくる農家が減っている。うちの鍋には欠かせない食材なんです、と立川さんは言う。将来的には農業にも少しずつ関わっていきたい。
あんこうについても同じことを考えている。水揚げ量を将来にわたって担保できるように、資源管理に取り組める立場でありたい。そのために、発言力のある飲食店であろうとしている。
あんこうには高級魚のイメージが強い。ただ、鍋と締めのおじやで5,000円ほど。ちょっとした贅沢や、家族の晴れの機会に使ってもらえる値段設定にしている、というのが本人の説明だ。
気軽に、あんこうという食文化に触れてもらえたらなと思います。
店舗情報
店名 | いせ源 |
|---|---|
住所 | 東京都千代田区神田須田町1-11-1 |
アクセス | JR神田駅から徒歩約5分 |
営業時間 | 11:30〜14:00/17:00〜22:00(動画撮影時点) |
席数 | 120席(椅子席・広間席あり) |
創業 | 1830年(天保元年) |
名物 | あんこう鍋、とも和え、きも刺し、唐揚げ |
その他 | 人力車の送迎サービスあり(予約可) |
営業時間や定休日は季節によって変わることがあります。訪問前に最新情報の確認を。
動画で見る
ここまで書いてきたが、6キロのあんこうが吊るされてから鍋になるまでの手数だけは、文字にすると平板になる。皮を剥ぐときの角度、粘液の垂れ方、肝に火が入って色が変わる瞬間。あのあたりは映像でしか伝わらない。
吊るし切りは5:03から、鍋が仕上がるのは31:32から。ぜひ動画で!!




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